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荷受け・図書館・買い物。

昨晩は早めの時間から寝た。起きたのは程よい時間帯で、早すぎて睡眠不足ということもなく、遅すぎて午前到着指定の荷物の受け取りを失敗するということもない。でも今日のタスクをこなし終えたら疲れがどっと吹き出てきた。まぶたも脚も重く、動けなくなった。

身体を無理やりに駆動させて何かまた活動しようとは思わなかったけど、照明のついた室内で、パソコンのディスプレイふたつの電源を落とすこともできないままに眠りそうになった。

少しでも早く眠りたかったが、部屋の照明とディスプレイだけはなんとか消した。太陽光はともかく、暗い室内を照らすような人工的な光はちらちらと明滅を繰り返しているためか、それらが点灯しているなかで眠ってから起きてみると、あんまり目が休まっていないように感じる。今日は、目も休めたかったので、なんとか余力をふり絞って部屋を暗くしたわけだ。そうして先ほどまで眠っていた。

何十日か前によく見ていたような、きつくて嫌な感じの夢を見てしまった。記憶や価値観は「現在」の自分なんだけど、僕のなかで「過去」に分類されている時期の人たちが何人も出てきたりする。その「過去」は特定の時期というわけでもなくバラバラで、いろんな「過去」の事柄がモンタージュ的に組み合わされる。

なんとなく、最近こうした「過去」の夢を見る機会が多い理由は分かる。嫌だったことや嬉しかったことが強く刻まれていてリフレインしているわけではない。おそらく「灯滅せんとして光を増す」ように、その「過去」たちが、僕のなかで燃え尽きようとしているのだろう。「現在」に影響を及ぼさず、関係ないもの・重要じゃないものへと後退していった「過去」たちが最後に見せようとする情景なんだと思う。逆から言えば、「過去」が後退していくくらい「現在」が充実してきている。使っていない記憶をいつまでも保持できるほど、あるいは保持しておきたいと思えるほど、僕の記憶容量は大きくない。

でも、何十日か前と今回とでは、夢を見たきっかけが(たぶん)微妙に異なる。何十日か前は、自然とそうなった。引っ越しが終わって新しい住まいに落ち着き、快く過ごせていたからそうなったのかもしれない。引き続き「現在」も快く過ごせているけど、今回は、通っていた学校の卒業アルバムを開くという明確に「過去」を振り返る出来事があった。

探していたのは、卒業アルバムではなく文集だったんだけど、それは無かった。以前に処分した気はしていたので意外ではない。読み返して面白いようなことは書いていないはずだし、今の僕にとっては関係ないもの・重要じゃないものになっていて、そうであるからこそ処分したのだ。でも、内容には全く興味が湧かないながらも、当時の文体とかを少しだけ確認してみたくなっていた。

残っているアルバムは重要なのかと言えばそうでもなく、別にいつでも処分していいと思っている。ただ、実家暮らしだったときに処分しようとしたら「それは高いお金払わされたやつなんだから持ってて」と親から制止されたのだ。その時は「まぁ、そうか」とか思って処分をやめたけど、今になって考えれば「いや知らんよ、そんな理屈」って感じだ。次に処分したくなったとき、捨てちゃうか、親に発送しようと思う。

中学校のアルバムの寄せ書きページには、結構な割合で「(僕の書く)小説を読みたい」ということが書かれていた。確かに、ちょうど中学3年生くらいのときは小説家になりたい気がしていたし、実際そのように表明していたと思う。

修学旅行の感想文の課題なんかは、規定が「原稿用紙で2枚半以上」だったところに30枚とか書いて、しかも担任≒学校には結局最後まで提出しなかった。興味を持ってくれた友達やクラスメイトには読んでもらって、おおむね好評をもらった。

あと経緯は忘れたけど、部活の後輩のホームページで小説の連載を頼まれて書いたりもしていた。後輩やその友人たちが読んでくれていたらしく、後輩伝いで感想をもらったりした。

当時書いた文章を読み返すことができたなら稚拙というほかないだろうけど、こうした作文にまつわる周辺のエピソード自体は「現在」でも大事に思えており、ぼんやりと残っている。

ちなみに、高校に入学してからすぐの進路希望調査でも、第一志望に「小説家」と書いて調査票を提出した。そして個別面談のとき、担任は調査票を見ながら半笑いのような表情で唖然としていた。文字どおり「開いた口が塞がらない」といった様子だった。どうやら、あの欄には「行政書士」とか、もしくは「一橋大学」とか書くのが模範的な回答だったらしいことは、しばらく後になってから分かった。