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いま僕が住んでいるのは兵庫県神戸市だけれども、その兵庫県を含むいくつかの地域にあれが発令されてから、すこし経った。僕の目に映っている変化としては、明らかに「ポイ捨てされているゴミが増えた」。

「飲食店の営業は20時まで、酒類の提供は19時まで」という要請があり、地域のお店はそれに応じて営業している。ふだん24時間営業しているようなお店が20時以降はテイクアウトの提供のみで営業し続けていることも、今は当たり前の風景だけど、記録しておくと後の時代から振り返りたいときの手掛かりになる。

そうした要請のあおりで行くあてを無くした消費者たちが、飲食や、飲食に付随する諸々のことを求めて街を彷徨っているのだろう。道沿いのトランスボックス(配電用の設備)や郵便ポストのような丁度いい高さのオブジェクトに、お酒の缶・チルド飲料の紙パック・牛丼テイクアウトの容器・コンビニスイーツの外装パッケージなどが置き捨てられている。また、丁度いい高さの花壇とかに腰掛けて飲んだり食べたりしながら喋っている人たちの姿も、おそらく平時以上には見掛ける。感染症対策としては、上手く行っているとは言いがたい。

公衆衛生や環境保護、あるいはモラルやマナーと言った観点から、ポイ捨てという行為を批判することは簡単だし、それを行う人々を非難することも容易にできてしまう。しかし、それを指摘するのはナンセンスだと思う。そんなのはポイ捨てをする人自身を含めた大多数が分かりきっていることで、わざわざ説教されたところで「うるせぇよ」って感じになるだけだろう。もちろん、意味が全く無いわけじゃないしそれを指摘してくれる人がいることも大事なんだけど、それだけでは急所まで届かない。

産業構造の変化に伴う「都市化」や「家庭機能の外部化(※)」、そういうものが進んできた社会のなかで、ある人の生活における大事な大事なインフラ的なものの供給がストップしたら、当然その人は困る。慌てて次善策や代替手段を探したりもする。

そうしたインフラ的なものを(家庭などで)自給自足できている人が賢くて、できていない人が愚かだというわけではない。ある何かを得ることについて外注できるデザインの社会だったから外注していた人がいる、ただそれだけのことだ。何かや誰かに怒ったりするなら、その矛先は外注していた個々人ではなく、そうした個々人の状態を固定化させてきたこと、言わば依存者・中毒者を創出し続けるという「商業的に効率が良い方法」の追求と暴走を看過してきたことなどに関してだろう。

僕には、途端に増加した街のゴミたちが、言葉にならなかった誰かの悲鳴や怒声のようなものでもあると感じられる。褒めることはできないけど、この小さな反社会的行為で憂さ晴らしをせずにはいられない状態の人たちがいること、それは認めなければいけないことだと思う。

彼らが自身の存在を街に「見える化」していること、これはもう立派な表現活動のひとつだと僕には思えるし、なにか気持ちが呆然とする。買って飲んだり食べたりする行為がその人にとって「要」で「急」だから街に出ていて、その痕跡を残すこともまた社会にとって「要」で「急」であると思う。これらを紋切型で咎める気にはなれない。

ただ、それはそれとして、ゴミを放置するのがよいわけでもないから、清掃の仕事や自主活動をやっている人たちの存在にも感謝している。僕も、落ちてる空き缶とかを相応しい捨場に移動させるのは結構やる。たまに、拾ってみたのはいいけど相応しい捨場をなかなか見つけられなくて、そのまま自宅まで着いちゃうこともある。

※
「家族機能の外部化」とも言われたりするけど、これに関しては「家庭」のほうが適切な表現だと僕は思っている。