『「わかりあえない」を越える』

競争心の強いクラスメイトから、「次のテストまでに、どっちのほうが良い準備をできるか勝負しよう」などと持ち掛けられて、僕は、特に迷ったりもせず適当に「いいよ」とか言って勝負を受けて立った。しかし、学生というのは大変に忙しいもので、時間はみるみる過ぎていく。すべての友達付き合いを完璧にこなしていくことはできないし、とある授業で「次回までにやっておく宿題」を出されたかと思えば、まばたきのような一瞬の後には、もう既にその「次回」が来ている。

授業前の休み時間、件のクラスメイトにノートを見せてもらうと、ぎっしりとした密度の、しかし充分に整理された書き込みがなされていた。理解を助けるための絵や図も描かれている。それらの絵や図からは、「天性のもの」と言えそうなセンスの良さはあまり感じられないが、今までに積み重ねてきた努力がよく窺える。一方の僕はと言えば、宿題があるということ自体は認識していたけれども、体感上あまりに早く「次回の授業」が訪れたので、何もやってきていなかった。ノートは真っ白だ。

まだ青年と呼ぶのがぴったり来るような若い非常勤の先生が教室にやってきて、授業が始まる。僕たちは、白い冊子の「2番」を開き、そこに書かれた文章と対峙する。文章の冒頭には、知らない大学の名前と、年度が書いてある。どこかの大学の入試の過去問らしい。数学の問題なのだが、その問題文はいかにも数学らしいドライな文体ではなく、例えるなら美術の解説書のような、少し気取った感じの独特の文体で、かなり長めに書かれている。ただ単に計算をこなすだけではなく、この問題を解く上で必要な記述を見つけて拾っていくこと自体までもが試験として設定されているみたいだ。

こんな問題を解いてくるのが宿題だと言われて、「うわ、面倒くさそう」と思わない生徒はどれだけいるだろうか。僕は結局、これを解いてこなかったにも関わらず、もう過ぎたことのように「面倒くさかったな」と思っている。しかし、やる気が皆無だというわけでは決してなく、どんな風にこの問題を解くのかを知りたいくらいの学習意欲は持っている。ノートは真っ白だが、そうであるからこそ、これから授業で教わる内容はしっかり書きつけておこうと考えている。

先生は、しばらく黒板に向かったままで複雑な作図を続けていたが、やがてその作図を終えると、生徒のほうに向き直る。そして、生徒の席の間を縫うようにして歩き始めた。そこそこスピードのある早歩きだ。生徒の机上のノートを覗くような素振りではあるが、あんな速度では、何かをチェックできるということはほとんど無いだろう。実際、先生が右側を向きながら歩く時には、左側にいる生徒については何もチェックしないままに通り過ぎている。

そんな様子だったから、僕はペンを動かしたり、考えている風の素振りを装ったりもせず、平然と白紙のノートを広げたまま、先生が横を通っていくのを待っていた。だが、運が悪かったのかもしれない。先生は僕の白紙のノートを見ると、「あ! ちょっと!」と大きな声を上げた。教室内の視線が一気にこちらに向かうのを感じる。

先生からの叱責が始まろうとする瞬間、僕のスイッチが綺麗にオフに(あるいはオンに)切り替わり、すぐに夢から覚めた。そう、これはただの夢だった。

僕は基本的に、夢で見た話を書くときは「夢の話であること」を最初に伝えておくのを意識しているけど、今日はそうしなかった。今日に関しては、僕が夢で体験したこの嫌な緊張を、むしろシェアしたいという狙いがあった。この夢は、僕の直接的な記憶ではないけど、もしかしたら似たようなことを実際に経験した人もいるかもしれない。

起きてすぐに、「これは明らかに先生のやり方が良くない」と分かった。僕、すなわち宿題をやってこなかった生徒に対して罪悪感を与えたり、教室のみんなに注目されたことの恥ずかしさや気まずさで萎縮させたりする必要は無い。

先生は、その生徒が宿題をやってこなかったことに気付き、その生徒の現在や将来を案じて指導を行おうとするなら、たとえば授業が終わった後にでもこっそり生徒を呼び出して、耳目を集めずに話をしたりするほうが良いだろう。その場合も、頭ごなしに叱りつける、いわば先生側からの言い分を「聞かせる」のではなくて、むしろ生徒側の言い分を「聞く」ことが大切だと思われる。

まずは「元気?」とでも質問して、そこから少しずつ「どうして宿題をやってこなかったか」に近付いていく。生徒の側の事情を汲まなければ、適切な指導はできないと思う。場合によっては、初手の「元気?」だけでほとんど全てが分かることもあるだろう。この数日のあいだ体調がとても悪かったとか、本人は元気であっても家族に問題が生じてそのケアで手一杯だったとか、部活動で疲れすぎて頭が回らないとか、大きな悩みがあって宿題どころではないとか。

あるいは、もう少し先の質問によって見えてくることもあるはずだ。志望している大学・学部では数学が入試に使われないからモチベーションが湧かないとか、今回の問題を解くにあたっての前提知識が身についていなかったから解きようが無かったとか、分からないけどサボりたいわけではないから放っておいてほしいとか、数学に限らず学業全般に虚しさを感じているとか。

いずれにせよ、生徒のことを案じて指導を行うなら、罪悪感や羞恥心を利用するのはきわめて悪い方法である。そのことが自信をもって分かり、夢から覚めた後すぐに嫌な気分を逃がすことができたのは、いま読み進めている本のおかげだ。この、『「わかりあえない」を越える(原題:Speak Peace in a World of Conflict)』の著者、マーシャル・B・ローゼンバーグは、NVC(Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を提唱し、最も暴力が蔓延していると言えるような地域で、紛争解決などに携わってきた。この本には、その知見と経験が詰まっている。

紛争解決などと聞いたら、スケールが壮大すぎて自分には関係ない話だと思うかもしれない。しかし、この本の内容は、家族や仕事の同僚とのちょっとした軋轢についても応用できるというか、むしろそういう日常的な事例をたくさん題材にしている。「大きい規模での取り組みが、小さい規模にも応用できる」というよりは、「小さい規模での取り組みこそが、めぐりめぐって大きい規模にも効いてくる」というような世界観だと言える。

まだ読んでいる途中ではあるけど、ここ数年で僕が読んできたコミュニティないしはコミュニケーションについての本のなかでも、とりわけ良い本だと感じる。広く強くおすすめできます。


『「わかりあえない」を越える 目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション』
マーシャル・B・ローゼンバーグ 著
今井麻希子、鈴木重子、安納献 訳
1900円 四六判 272頁 978-4-909934-01-7
海士の風(発売:英治出版) 2021年12月8日 発行

https://eijipress.co.jp/products/5037

この記事内の『「わかりあえない」を越える』の引用箇所は、Kindle版でのページ数を示しています。

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