『ホモ・ルーデンス』

人それぞれ、「知ってるけど読んだことの無い本」というのが、たくさん存在すると思う。文学であれば『星の王子さま』とか『レ・ミゼラブル』とか、思想哲学であれば『職業としての学問』とか『第二の性』とか……。こうした「素晴らしく評判の高い本」や「大きな影響力をもたらした本」だけでさえも数えきれないくらい世のなかに存在しているので、「知ってるけど読んだことの無い本」がどれほどあっても驚くことではない。道のりは人それぞれだ。

僕にとっては、『ホモ・ルーデンス』も、そうした本のなかの一冊だった。読んだことは無いけど、教科書的な説明なら知っている。著者のホイジンガは、「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」という人間観を、つまり「遊び」が人間活動にとって本質的なものであるという考えを提示した。……高校の倫理科目で教わるのはこの程度のことだし、実際、この程度のことを知っているだけでも随分と便利だった。何かの本や記事などで「ホモ・ルーデンス」という概念が出てきても「オッケー、<遊び>の重要さについて言及したいのね」と認識して読み進めれば、基本的には文脈を取り違えることも無かった(と思っている)。

そんな『ホモ・ルーデンス』になんとなく向き合ってみたい気持ちになって読んでみたところ、かなり序盤の時点から、「ここで述べられている<遊び>は、僕が勝手に想像していた<遊び>とはだいぶ毛色が異なるものを含んでいるな」ということに気付いた。

いや、完全には「勝手に」というわけでもなかったはずだ。むかし僕が読んだ高校倫理の参考書には、ホモ・ルーデンスについての記述に併せ、人が楽しそうにダンスしている姿の挿絵が描かれていた(※)。そこから僕が想像した「遊び」は、いかにもレジャー的で自己充足的な、穏やかで牧歌的なものだった。記憶を定着させるために僕が広げた連想イメージで「遊ぶ人」は、釣りをしたり野山で昼寝をしたりしていた。

さて、ホイジンガは、以下の五つを遊びの形式的特徴であると分析した。すなわち、

1. それは自由なものであり、自由そのものである。 P.24-25
2. 遊びは「ありきたりの」生活でもなく、「本来の」生活でもない。そこから一歩踏み出して独自の性格をもった活動の仮構の世界に入るのが遊びだ。 P.25
3. 遊びはありきたりの生活から場所と継続期間によって区別される(=場所的、時間的限定性)。 P.27
4. 遊び場の中では独自の、絶対的秩序が支配する。 P.28
5. 遊びの領域においてはありきたりの生活の法や慣習はなんの効用ももたない。我々は「違った」ものに「なっており」、「違った」行為を「している」(=別人化・秘密主義)。 P.32

注: 以降も含め、この記事で参照する『ホモ・ルーデンス』は、すべて講談社学術文庫版(ヨハン・ホイジンガ/[訳]里見元一郎(2018)『ホモ・ルーデンス』 講談社)による。

これらの形式的特徴を連続的にまとめ上げた一節が33ページにある。

遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。 P.33

続けてホイジンガは、遊びをその機能の面から「戦い」「演技」の二つに大別して考えていくのだが、この序盤の時点ですでに考え方が意外に感じられた。僕にとって、想像していた「遊ぶ人」の姿と異なっており少し驚いたのが、形式的特徴の四番目、「遊びは秩序・規則・法則に支配される」ということと、機能としての「戦い」である。

まず前者について、遊びという言葉ないし概念に対しては、これとは真逆、つまり秩序・規則・法則に「支配されないこと」を脊髄反射的に思い浮かべてしまわないだろうか。遊びと言えば、自由で、のびのびとしており、ありきたりな日常のルールには囚われない活動で……しかしこれは、二番目や五番目の形式的特徴にこそ当てはまることである。

では、僕たちは遊んでいる時、ひとりで遊んでいる時でさえも、自らの遊びのなかで秩序や規則に支配されているのだろうか。ここで身近な例をひとつ考えてみよう。仕事の繁忙期のさなかで、ある時、丸一日の休みを獲得した。気晴らしに近所の川にでも行ってみよう。道中のコンビニで買った軽食を携えて、コンクリートで階段状になっている川岸のそばに腰を下ろし、リラックスした体勢でくつろぐ。晴れ空のうららかな陽気にあてられ、眠気とともに物思いに耽る。川のせせらぎ。草木のにおい。雲の動き。通りすがる自転車。さっき食べたパン。首肩の凝り。来週の大事な商談。おっと、いけないいけない、今日ばかりは仕事のことは気にしないようにするんだった――。この「仕事のことは気にせず休む」ということだって、いつの間にか自分に課した秩序や規則だと言えなくもない。ホイジンガの言う「遊び」概念からは少々ずれた例だが、川辺でだらだら過ごすだけという秩序や規則の類から最も縁の遠そうな過ごし方をする場合にさえ、それらからの支配が発生することもあるわけだ。

後者の「戦い」についての意外さは、それまでのページでの記述というよりは、そこから後の記述に関してのものだ。この本においてホイジンガは「一人遊び」に比べて「社会的遊び」により強く着目し、紙面の多くを「社会的遊び」の分析に割いている。「社会的遊び」は、しばしば「闘技的」「競技的」な性格を帯びる。ゆえに、この『ホモ・ルーデンス』という本は、人と人とが相争うような様についての考察を多量に含んでいる。

他方、ホイジンガは「一人遊び」のことも遊びだと認めているし、決して軽視しているわけではないだろう。しかしながら、この『ホモ・ルーデンス』という本の副題は、「文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」である。この試みにおいて中心的なのは、文化と遊びの関係について考えていくことだ。「一人遊び」がどれだけ十全に遊びであっても、これを自分以外の誰にも見せたり共有したりしないままでは集団的・社会的な「文化」には発展し得ないので、この論考での「一人遊び」は脇役となっている。

特に追求されるべき文化と遊びの関係が社会的遊びのより高級な形式の中にあることは言うまでもない。なぜなら、そこでは遊びは一つのグループ、あるいは共同体、もしくは二つの対立し合ったグループなどの秩序立った行為の中で成立するからだ。一人遊びは文化に対してただごく限られた範囲でしか実りをもたらさない。 P.87

この「相争うような様についての考察を多量に含んでいること」と、「一人遊びは脇役になっていること」とが、僕が抱いていたイメージ、つまり悠々自適にマイペースに楽しむ「遊ぶ人」の姿とはかけ離れており、少し驚いたのだった。

抱いていたイメージとは異なる方向への掘り下げをしていく本だったけれども、面白かった。反射的には違和感を感じてしまう主張でも、いざ分析を聞いてみれば、あるいは考え直してみれば「なるほどな」と感じることも多かった。

この本におけるもうひとつのテーマとも言えるかもしれない事柄が、「遊び」と、これに対立する概念としてしばしば捉えられる「真面目」との関係だ。ホイジンガは、これらの対立が絶対的に存在するのではなく、同居しうることや表裏一体になりうることを主張する。

我々は遊びと真面目の対立を絶対的なものと考えることになれている。しかしおそらくは、それは最も深い基盤にまで踏み込んでいない。そこでちょっと、次のようなゆっくりと順を追った連鎖関係を考えてみてほしい。子供は完全に真面目に、しかもこう言ってよい十分な理由があると思うのだが、つまり、聖なる真面目さで遊ぶ。しかし遊んでいても、それが遊びであることを知っている。スポーツマンは献身的な真面目さと無我夢中の闘志で遊ぶ(プレイする)。彼も遊んでいて、自分が遊んでいる(ゲームをしている)ことを知っている。俳優は彼の遊び(演技)に没頭する。にもかかわらず、彼は遊んでおり、しかも遊んでいる(所作をしている)ことを自覚している。ヴァイオリニストは最も神聖な感動におののき、日常的世界の外に出て、それを越える体験を味わいながら、それでも彼の行為は遊び(演奏)であり続ける。 P.41-42

いま引用した部分は、文脈としては、祭礼儀式や秘蹟的行為のように最高度かつ神聖な真面目さで執り行なわれるものが同時に遊びでありうる、ということを示す中途の一部分である。だから、その中途だけを切り抜くのはあまり行儀がよくないのだが、遊びと真面目の同居性についての例示として理解しやすそうなので引っ張ってきた。

そして、この遊びと真面目との均衡・緊張は流動的で、崩れたり反転したりする。ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』を著して世に問うたのは1938年、つまり二十世紀の前半だが、その直前の時代である十九世紀についてホイジンガは「真面目が支配する」時代として評価した。

本書の最終章では、遊びという視座から現代の「スポーツ」「職業生活」「芸術」「科学」「国際政治」といった領域についても考えていく。たとえば近現代ではスポーツの産業化についての批判は最もよくある社会批判のひとつである。これに関してホイジンガは「遊びの喪失」という点から嘆息を漏らしている。いわく、「スポーツはしだいに純粋な遊びの領域を離れ」、「遊びでもないし真面目でもない」、「闘技的本能だけをむき出して表現するものになった」(P.317-318)。

この本を読んで意外だったことがもうひとつ。それは、僕がぼんやりと折にふれて考えてきた「スポーツマンシップ」という観念への肯定的な理解にとって非常に示唆的な形で、ホイジンガが結論を述べていたことだ。

我々はゆっくりとではあったがやっと一つの結論に近づいてきた。真の文化はある程度、遊びの内容をもたなくては成り立ちえない。なぜなら、文化はなんらかの自己抑制と克己を前提とし、さらにその文化に特有の性向を絶対最高のものと思い込んだりしない能力をもち、しかも自由意志で受け入れたある限界の中で閉ざされた自己を見つめる能力を前提としている。文化はある意味ではいつの時代でもやはり一定の規律への相互の合意に基づいて遊ばれることを欲している。真の文明はいかなる見方に立とうと常にフェアプレーを要求する。またそのフェアプレーとはつまり善良な誠実さを遊び言葉に言い換えたものにほかならない。 P.339

この結論部分はもう少し続くのだが、長くなるので引用はここまでにしておく。僕は「スポーツマンシップ」的な思考や行動が現代にはもう少し必要だと、そしてそれが、ミシェル・フーコーが指摘したような複雑に練り上がった権力――強者の支配・弱者の被支配という単純な「上から」の権力ではなく、それぞれの成員が相互に支配・被支配を支えているような「下から」の権力――を内側から解体するカードとして機能しうる場合があるのではないかと、なんとなく思っている。それは、スポーツマンシップのようなものの発現は基本的には「遊びの協定」に則るものでありつつ、一方では、戦いや演技を白けさせる「協定破り」とも解釈されうるような、微妙で境界的な行為だからではないだろうか。もちろん、厳密な意味での「協定破り」は遊びを破壊してしまうものなのだが、そうではなく、社会のムードや潮流といった複雑な権力が「遊び」もしくは「真面目」の一方ばかりを求める傾向に抗い、遊びと真面目との平衡関係を十分にヘルシーな状態に保とうとする働きとして捉えることができる気がする。

ホイジンガは「遊び」と「真面目」との関係について、中庸だとかバランスだとか、そういうことが大事だとは主張していない。しかし、この両者が共存してこそ「遊び」であると認識しているように読める。真面目ばかりが支配するのでも、その反対に真面目さを軒並み退けるのでも、どちらにしても人々の生活(=文化)は頽廃的になってしまう。

僕がスポーツマンシップという観念を用いて考えたいことは、ホイジンガ的に理解するなら「遊びにおいて真面目であり、真面目において遊ぶこと」なのかもしれない。遊びと真面目のどちらにも敬意を払いつつも、片方にのみ与することはせず、見方によれば、どちらにも唾を吐いていくような在り方。この本で出てきた印象的な表現を借りるなら、「信仰と不信仰の表裏一体性、聖なる真面目さと『みせかけ』や『冗談ごと』との結びつき(P.51)」。

幼少期の経験もあって、僕はスポーツがそこそこ好きだ。しかし、スポーツを好んでいる人の大半とは気が合わないと感じている。逆に気が合う人はスポーツを好んでいないということが多い。このすれ違いは悩みというほどではないにしても、解決できたら嬉しい課題のひとつではある。勝利とか鍛錬とかにはあんまり興味もこだわりも無いけど、スポーツ活動そのものよりもコミュニティとしての機能を重視して専らパーティーやお祭りの類に重点を置いているようなクラブやサークルに参加することも強めに遠慮したい。では一体どうすれば自分と似たような温度感や距離感でスポーツと接したい人と協調できるだろうかと、たまに考えてみても、今まで特に良いアイディアを思いつくことは無かった。そうしたなかで、もし「『ホモ・ルーデンス』を通読したことがある人」という条件のもとで集まるスポーツクラブやサークルがあるとすれば、それは僕にとって気が合う人とスポーツで協調できるような最もシンプルな条件かもしれない、などと思ったりもした。

※ 補足: この記事の冒頭から四番目の段落について
ここで若干トリッキーなのが、確かにホイジンガの主張において「踊り」は、遊びとの関連が特別に強いものとして描かれていることだ。たとえば以下の一節。
我々は音楽に類するものすべてを、たえず本来的に遊びの限界内にあるものとして扱おうとするのだが、実はこのことは音楽とは切っても切れない双子の芸術ともいうべき舞踊によりいっそう深く当てはまる。(中略)とにかく言葉の完全な意味において踊りは遊びであり、しかもそれが遊びの最も明瞭で最も完全な形式を表現しているといえる。 P.268-269
しかし、直後にはこのような記述が続く。
ただ当然のことながら、この遊びの特質は、すべての踊りの形式において完全に優位に立っているわけではない。それは一方では輪舞やフィギュア・ダンス、他方ではソロの踊りに最もはっきり認められる。つまり、メヌエットやマドリガルのように踊りが展示、描写、象徴、もしくはリズミカルな組み合わせや運動を示す時がそうだ。ところが、円舞や輪舞、フィギュア・ダンスがすたれ、それに代わってワルツやポルカのように円く踊るにせよ、ただ現代風に前へ出る踊りにせよ、とにかく二人がペアで踊る踊りが進出することは文化の弛緩と貧相化の現象と見るべきではないだろうか。 P.269
つまり、「すべての踊りの形式」が全き意味での「遊び」であるとは、ホイジンガ自身も考えていない。だからこそ、参考書でホモ・ルーデンスを説明するのに際しダンスの挿絵を載せるとすれば、理想的にはそのイラストの選定に一定以上の慎重さが求められる。もはや僕は挿絵が具体的にどんなものだったかは覚えておらず、ただ「楽しそうにダンスしていること」しか記憶していないけど、その挿絵はホイジンガから見て「遊び」を、ホモ・ルーデンスの概念を、適切に表すものだっただろうか。さておき、こんな細部にまで専門的な監修をいちいち入れるのはかなり難しいだろうし、出版も教育も、というか仕事や生活はどの局面を切り取っても大変だ。たとえ不完全だと分かっていても、その時その時の手札で行動し続けていかざるを得ない。

『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』
ヨハン・ホイジンガ 著
里見 元一郎 訳
1360円 文庫判 400頁 978-4-06-292479-5
講談社 2018年3月11日 発行

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211958

この記事内の『ホモ・ルーデンス』の引用箇所は、Kindle版でのページ数を示しています。

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