『自動車の社会的費用』

こないだ、少し遠くまで散歩した。今まで行ったことの無い場所に向かったのだが、携帯端末で地図アプリをずっと見ながら歩くのは嫌だから、おおむね記憶しておける程度に簡単な経路を選んだ。

簡単な経路を行く場合、細い路地を進んで何度も左右に曲がっていく時間より、大きな通りをまっすぐ進んでいく時間が長い。こないだの散歩でも同様で、真上に高速道路が架かっているような道を進んでいく時間があった。そういう道は、地上でも車の通行量が多い。

神戸も含め、港という感じの土地はよく物流の拠点になってたり、重工業が営まれていたりする。そういう地域の大きな通りだから、大型トラックとかもたくさん走っているし、もちろん乗用車も間隙なく走っている。

車、車、たくさんの車。僕自身は運転免許も持ってないし車に乗らない人間だ。しかし、その僕が暮らしている社会は、こんなにも車が行き交うことによって成り立っているんだよな……と、しみじみ感じた。そしてほとんど無意識に「自動車の社会的費用……」と思った。

宇沢弘文が著した『自動車の社会的費用』。シンプルで飾らない題だが、宇沢は、きっと途方も無いほどの怒りや悲しみや失望などをこの9文字に込めたのだろうということが、理屈よりも身体感覚として、ふと伝わってきたような気がした。

かつて宇沢の指導を受け、また宇沢の盟友でもあったジョセフ・E・スティグリッツは「ヒロの話は30年後ぐらいにわかる」と述べたらしい。『自動車の社会的費用』が発表され、毎日出版文化賞を授与されたのは1974年。つまり今から約50年前だ。

宇沢の主張が(再度)注目されるまでには、スティグリッツが予想したよりも余計に十数年ほどを要してしまったわけだが、その十数年ほどの間にも、さまざまな領域でさまざまが進行し、たとえば環境問題や社会格差は、いっそう深刻になってしまった。

自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。このような点はとくに日本社会の場合について顕著にあらわれている。自家用自動車を「マイカー」という言葉で呼んでいるが、この言葉ほど、自動車に対する日本社会の捉え方を象徴したものはない。他人にどのような迷惑を及ぼそうと自らの利益だけを追う、飽くことをしらない物質的欲望がそのままこの「マイカー」という言葉にあらわされている。
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宇沢弘文(1974)『自動車の社会的費用』 岩波書店 P.32

東大の理学部数学科出身であり数理経済学を主戦場とする宇沢の主張において、いま引用したような部分は、どちらかと言えば本流というより傍流の類だと思う。しかし、社会のシステムや制度によって形成されていく人間の心性と、その心性がどのような影響をもたらすかについて、僕は少し強めに関心を持っているから、こういう部分こそが頭に残ったりする。

たとえば今後、車の燃料がガソリンからクリーンな電力へと順次置き換わっていき、二酸化炭素排出量が減ったとしても、それだけで諸問題が解決するとは考えられない。電気自動車を走らせるには、クリーンな電力だけではなく、当然ながら電気自動車そのものが必要だ。その電気自動車に必要なリチウムイオン電池を作るには、リチウムやコバルトといった資源を採掘せねばならず、その採掘を通じて環境破壊や紛争ならびに格差拡大は続いていくだろう。

結局のところ、自動車のことに限らず、いくらテクノロジーが進歩したとしても「利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面」を変容させなければ、問題の争点をずらして先送りにするだけだと思う。

このようにさまざまな社会的問題を惹き起こしながら、つぎからつぎに道路が拡大され、あるいは新しく建設されて、自動車の保有台数がふえてきたのはなぜであろうか。さきにふれたように、そのもっとも大きな要因は、自動車通行によって第三者に大きな被害を与え、希少な社会的資源を使いながら、それらに対してほとんど代価を支払わなくてもよかった、ということをあげることができる。すなわち、本来、自動車の所有者あるいは運転者が負担しなければならないはずであったこれらの社会的費用を、歩行者や住民に転嫁して自らはわずかな代価を支払うだけで自動車を利用することができたために、人々は自動車を利用すればするほど利益を得ることになって、自動車に対する需要が増大してきたのだ、ということができよう。
(中略)
この悪循環の鎖を断ち切るためには、自動車通行によって発生する社会的費用を自動車を利用する人々が負担するという本来の立場にたち返ることが、まずなによりも重要なことになってくる。
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宇沢弘文(1974)『自動車の社会的費用』 岩波書店 P.78-79

宇沢の主張は、「決して自動車に乗るな」ということでは必ずしもない。自動車の便利さも当然認めたうえで、「自動車通行によって発生する社会的費用」を、「歩行者や住民に転嫁」するのではなく、「自動車を利用する人々が負担」するべきだという主張だ。

執筆当時と比較し、歩道やガードレールや並木の整備はずいぶん進んだはずである。しかし「転嫁」のメカニズムは強固に作用し続けているし、道路という公共空間がたとえば子供の遊び場としての復権を果たすようなこともあまり無く、依然として自動車がふんぞり返っている。だからこそ、市民の基本的な権利を軸に展開していく宇沢の主張は、現代にも、そして自動車や交通以外の領域についても通じると思う。

本書のなかでも指摘しているように、社会的費用を計測するのは難しく、その計測を試みる者の主観的な立場がどうしても反映されてしまう。とはいえ、この本で問うているような倫理の問題に向き合うことなく、今後、「自動運転」などが普及していくなら、それはかなり怖いことだと思う。技術そのものは間違いなく便利なものである。だが、その便利さのための社会的費用は、どこの誰に負担させることになるのだろうか。


『自動車の社会的費用』
宇沢弘文 著
800円 新書判 194頁 978-4-00-411047-7
岩波書店 1974年6月20日 初版発行 2020年12月15日 改版発行

https://www.iwanami.co.jp/book/b267083.html

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