「期」に入ったな~、という感触がある。
大体ひと月前くらいから、およそほとんどの娯楽(と呼ばれるもの)から、満たされる気持ちが感じられない状態になっている。そんな一時的な逃避ではどうにもならないほどの息苦しさ。
心配させてしまわないように書いておくと、じゃあ今の僕はとても苦しい日々を送っているのかと言えばそんなことはなく、むしろ落ち着いた心境で取り組むべきことに取り組めていると思うし、十分な楽しさを感じながら生活できている。
少し前に、『多文化に出会うブックガイド』という本を眺めた。
版元である読書工房のウェブページから引用すると、この本は「子どもたちがさまざまな文化(多文化)に出会うための扉になるような絵本・小説・ノンフィクション・写真集・学習図鑑など655タイトル(シリーズを含む)をカラー写真入りで紹介する本格的なブックガイド」である。
日本と文化的に近いアメリカや地理的に近い東アジアだけでなく、さまざまな地域のことを知る手掛かりとなる本たちが紹介されており、良いブックガイドだと思った。
掲載されている沢山の本を眺めて、なんとなく自分の気持ちが惹かれた本をメモした。そのひとつが、「トルストイの散歩道」シリーズだ。あすなろ書房から刊行された全5冊のシリーズで、トルストイの短編を集めている。
トルストイと言えば『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』といった長編が真っ先に連想されるけれども、彼は短編も多く書いていて、その内容も、実は平易で読みやすかったりする。「トルストイの散歩道」シリーズは対象読者に「小学校高学年」を想定しており、僕の実感としても、たしかに高学年には丁度いい読みごたえだと思う。
このシリーズから僕は、『二老人』を図書館で借りて読んだ。そして、「あぁ、トルストイだな」と思った。地域や時代や言語を越えうる「普遍的に大事なもの」が描かれていると思うし、それを描写しようと大真面目に心を注いだことが感じ取れる。いま必要なのはトルストイ的な栄養だ。
現代の諸問題にいちいち向き合ったり逃避したりするのでは、もはや気持ちが救われなくなってきている。あれもこれもが一時凌ぎにしかならないのに、次から次へと問題が生じてくるから、そのひっきりなしの対処療法自体に疲れてしまう。それが冒頭で書いたところの「期」だ。
必要なのは何だろうか。激しく変化する皮相に惑わされず、悠然と構えることだと僕は思う。それは結局、長く厚く堆積してきた人類の過去において僕なんかよりもよほど賢い人たちがずっと工夫して伝えようとしてきたことであり、そういうものに接して学び取っていくことが、迂遠なようでも自分を助けるために必要だと感じる。
たとえば、最近読んで勇気づけられたのは、ソローの『市民の反抗(市民の不服従)』。もちろん19世紀っぽい記述もあるけど、その態度や精神性には、僕が参考にすべきところが多いと感じた。
さて、トルストイ作品に魅せられてロシア語を学び、トルストイ専門の翻訳家として活動した、北御門二郎という人がいる。あすなろ書房の「トルストイの散歩道」シリーズ5冊すべても、この北御門氏による翻訳だ。『二老人』の訳者あとがきを読んだ僕は、その熱の込もった文から畏敬の念を抱いた。
トルストイ再評価の波が僕のもとに打ち寄せてくる一方で、僕は北御門氏にも興味が湧いてきた。1913年生まれの氏が、その信念に基づいて兵役を拒否したエピソードなどは、ちょうど先ほど挙げたソローの『市民の反抗』とも像が重なり、いま自分が求めている「なにか」がこの周辺に埋まっていることを予感させる。
「この手の本なら、もしや」と考え、近所の古書店に赴いてみた。残念ながら北御門氏の本の在庫は無かったけれども、店のご主人は北御門氏の本のことを知っており、もし次に遭遇したら取り置いておくと持ちかけてくださった。
僕がご主人に北御門氏の本のことを尋ねたところから数分だけ時間を遡るが、今回の来店では、ここの古書店のご主人自身が書いた本を買った。北御門氏の本が無かった場合こちらを買うつもりで来ていた。この本については、将来きっと、別記事を設けて紹介すると思う。
会計してから、「前回来たとき、奨学金を払い終えた嬉しさを伝えた者です。聞いてくださってありがとうございました」といったことをご主人に述べてみたところ、そのことはご主人にとっても印象深かったらしく、覚えていてくださった。
それどころか、年4回発行しているお店の新聞の次回号か次々回号に、その日のエピソードを書いていただいたそうだ。なんでも、僕がその話をしたときに居合わせていた別のお客さんも奨学金の利用者で、僕が退店した後、ふたたび奨学金の話でご主人と談笑したりしたとのことだった。そう、まさしく、こうして思い出深くできる気がしたから、あの日この古書店に来てみたのだ。実行してみて良かったし、ありがたく思う。
今回は時間もあったので、自己紹介も兼ねつつ、ゆっくり色々と喋った。ご主人は「こういう若い人がいるのは嬉しい」などと言ってくださったが、僕にとっても、気骨と優しさのあるご主人のような年配の方と話す機会を持てるのは嬉しいことだ。
退店まぎわ、「身体に気をつけましょう」のような挨拶を互いに交わした。「気をつけると言っても、何をどう対策すればいいのか分からないんですけどね」などとご主人が仰ったので、「たぶん、心を穏やかにしておくことが何よりの対策だと思います」のように返した。
新版 『人生論』
トルストイ 著
米川 和夫 訳
400円 文庫判 304頁 978-4-04-208926-1
株式会社KADOKAWA 2004年5月25日 改版発行