『暇と退屈の倫理学』

図書館に行く前には、その日にどんな本を借りるか、おおよその見当をつける。

誰かとの会話で出てきたり、各種メディアで紹介や引用をされたりしていて興味が湧いた本は、わざと軽率にどんどんメモしている。いつか、その本を読みたい気持ちが強くなったときに読んだらいいかもしれないと思ってリスト化している。

図書館に行く前には、そうした「気になる本リスト」の中から、今の気分にあわせて何冊かをピックアップし、図書館の蔵書を検索できるウェブサービスで調べる。そうすると、ピックアップした本たちが今日これから行く館に所蔵されているかどうかが分かる。所蔵されていると分かれば、分類記号を紙にメモして、館内で見つけやすいようにしておく。

そうして見当をつけた本でも、実際に借りて帰ってくるとは限らない。だいたいの感覚では、実際に借りるのは3割くらいだろう。

7割くらいは、軽く立ち読みしたところ「ちょっと違うな」と感じて棚に戻すのだが、それは別に今生の別れではなく、「今の気分とはマッチしなかった」、単にそういう現象だと捉えている。また、せっかく沢山の蔵書に囲まれるのだから、目的の本だけを見るのではなく、偶然で出会った本にも手を伸ばしてみたいという考えの作用も大きい。

館内をいろいろと見て回り、その日その時の取捨選択を経て、一度に借りられる上限いっぱいの10冊を借りて帰ってくる。これらの本も、必ずしもきちんと読むわけではない。

もちろん、読めるエネルギーがあるなら読めたほうが嬉しいのだが、僕にとっての図書館の効能は、借りる時点で、取捨選択を行う時点で、一定程度以上には果たされている。GPSのように、蔵書という沢山の人工衛星との位置関係から、自分の興味関心の現在地を測る。これだけでも、自分の生活にとって十分に意義深い効能があると思う。

さて、手に取った本でも借りるとは限らないし、借りた本でも読むとは限らないのだが、他方では、そもそも「手に取れない本」がある。すなわち、生活圏の図書館にも書店にも古書店にも置かれていない本だ。

最近で言えば、仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠』や、A・O・ハーシュマン『反動のレトリック』あたりに対する読みたさがあった。しかしこれらは、図書館・書店・古書店のいずれにも無かった。

これらの本の概要の共通項から読み取れる人もいるかと思うけど、僕が近年抱いているの問題意識のひとつに、「いかにして安易なナラティヴに飲まれずにいるか」ということがある。

人は、自分自身の内側で渦巻く様々な不満や不安を、ナラティヴの転換によって解消しようとする傾向が強い。つまり、不満や不安を作っている状況や環境に働きかけるよりも、むしろ自分自身の認識に働きかけて、世界解釈の物語を書き換え、認識の上での「解決」を目指そうとする傾向が強い。それが僕の見解だ。

当然ながら、ナラティヴの転換すべてが悪だとは思わない。容易には変えられない状況や環境においては、ひとまずはナラティヴの転換によってしか自分を励ませないような場合もあるだろう。

では、どういったものが避けるべき「安易なナラティヴ」であるのか。それを示すのは難しい。まだ僕のなかでも判然としておらず、うまく掴めない。しかし、僕が問題だと捉えていることが典型的に表れた例として、こちらの記事のようなケースを挙げられる。

多くの人々はヒトラーを「悪の権化」と決め付ける「教科書的」な見方に不満を抱き、「ナチスは良いこともした」といった「斬新」な主張に魅力を感じている。

(中略)

そこでは多くの場合、学校的な価値観への反発が「教科書に書いていない真実」への盲信に直結している。一般に出回っている不正確な情報、怪しげなデマの類でさえ、「教科書的」な見方を否定するものであれば、いともたやすく「真実」と見なされる。

かくも多くの人がこの落とし穴にはまってしまう原因はほかでもなく、そうした情報が権威にとらわれずに「自由」に物を言いたいという欲求と、自分たちは「本当のこと」を知っているという優越感とを同時に満たしてくれる点にある。
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新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち - 現代新書
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84256

この記事における「ナチスは良いこともした」のようなナラティヴが世に溢れている。それらに飲まれずにいるだけで十分よくやれていると言えてしまうほど、昨今のインターネットは大時化状態だと思う。だから安易なナラティヴに遭遇して飲まれてしまうことも全く不自然ではないし、それこそ、やれ勉強不足だなんだと「自助」の問題にすり替えるべきでもないだろう。

夏頃、斎藤幸平さんと國分功一郎さんの対談があった。この番組を放送したJ-WAVEの公式チャンネルから、対談がYouTubeにアップロードされている。

陰謀論について、國分さんは「複雑化しすぎた社会に対するね、ある種のアレルギー反応だと思うんですよね」と述べる(10:17~)。

「陰謀論みたいなのって、すごく単純な世界観で、で、それに飛びつくと人はさ、確信持ったりさ、確信を持って何かを言ったりすることができるようになるわけですよ。その喜びっていうか、『いま自分は確信持って正しいこと言ってるんだ』っていうものすごい強い満足感があると思うんですよね。
で、その時にそれを『間違ってる、間違ってる』って……間違ってるに決まってるんだけど、『間違ってる、間違ってる』言うだけじゃダメで、やっぱりきちんと概念とか情報に基づいて人が、ある種の、まぁある程度の確信を持ってね、なんかこう、考えたり信じたり言うことができるって風になることが、やっぱり、最終的には僕は陰謀論に対する処方箋だと思うのね(10:31~)」

そして、時間や暇の大事さを説く。

「まぁ、あのね、やっぱあと、もう……歳取ってきて思うけどやっぱね、『時間』ですよね。やっぱ時間があるってことが本当贅沢だし、大事だと思う(16:41~)」

「もう僕ね、あえてね、もう……様々な問題をもう単純化して言うと……解決策出すとしたらね、もうとにかく『暇』ですよって僕は言いたい(17:12~)」

「概念とか情報に基づいて、考えたり信じたり言うことができるって風になること」が大事。そして、そうできるために必要な条件にも色々があるだろうけど、あえて乱暴に挙げるなら、やはりとにかく「時間」や「暇」。僕もそう思っているし、それに基づいて少しずつ自分の生活を整備してきた。いつでも時間や暇だけは確保できるようにしている。

逆に、極度に時間が無い中では、エナジードリンクのように素早く摂取できるもの以外の選択肢が無かったりする。刺激的で、手っ取り早く、分かりやすい効果をもたらしてくれるもの。「安易なナラティヴ」もまた、そういう類のものである。

安易なナラティヴに飲まれてしまうのは、情報リテラシーそのものの問題ばかりではなく、リテラシーを発揮するための時間の問題でもあると思う。しかも、問題の重心は、リテラシー自体よりもむしろ時間の方にあるように感じる。だからこそ、まずは何より「時間」や「暇」を重視するのだ。

知り合いが最近、少しずつ『暇と退屈の倫理学』を読み進めているらしい。この本は、先ほどの対談にも招かれていた國分功一郎さんによる本で、2011年に朝日出版社から発行、2015年には太田出版から増補新版が発行されている。

僕は朝日出版社から出たオリジナル版を持っている。この本を読んだのはだいぶ昔のことで、あまり内容をはっきりとは覚えていなかったが、読んでいて面白かった本のひとつであることは記憶しているし、手元には当時の読書記録も残っている。

知り合いが読み進めているようだったから、なんとなく触発されて、この機会に僕も読み直してみようという気持ちになった。そして読み始め、読み終えた。初めて読んだ時よりも、「これはいい本だな」と感じた。

なにがしかの関心を抱いていることで、読み方にも変化が起こる。その関心と結びつきそうな部分には注意したり注目したりできる。「安易なナラティヴ」という問題意識が前景に出てきていた今回は、「本来性なき疎外」という概念が印象に残った。

疎外された状態は人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもこうではなかったからだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。
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國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』 朝日出版社 P.164

かつて「疎外」という概念は盛んに論じられた。しかし、疎外という言葉がイメージさせる「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、すなわち「本来性」への志向は、本来の姿に戻らねばならないという過去への回帰欲望であり、強制や排除へと容易に繋がる大変に危険なものであった。この本来性の共犯者とみなされるようになった疎外は、次第に扱われなくなっていった。

その疎外という概念の見直しが、『暇と退屈の倫理学』の研究の一つである。すなわち、「疎外概念に本来性概念との共犯関係を見出し、いい気になってこれを糾弾し始めた思想・哲学は、ただ単に、疎外という現実から目を背けていただけだったのではないか?(P.167)」「疎外は本来性と本当に切り離せないのか?(P.168)」という問いだ。

そして、本書では、疎外論の代表的論者であるルソーとマルクスは「本来性を想定することなく、しかし、疎外からの脱却を目指していたということ(P.193)」を見出す。

ルソーは文明人の惨めさを嘆き、自然人という純粋に理論的な像を作り出すことで、人間の本性に接近し、そこから文明人をよりよく導くための教育法(『エミール』)や政治理論(『社会契約論』)を考えた。

マルクスは疎外された労働を批判しつつ、本来的な労働を措定することなく、労働日の短縮にもとづいた「自由の王国」を考えた。

彼らは、疎外を徹底して思考しながら、本来性の誘惑に囚われることなく、新しい何かを創造しようとした。これは別に取り立てて困難なことではない。戻っていくべき本来の姿などないことを認めたうえで、「疎外」という言葉で名指すべき現象から目を背けないこと。〈暇と退屈の倫理学〉が目指すのもこの方向である。
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國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』 朝日出版社 P.194

『暇と退屈の倫理学』では、ルソーやマルクスの疎外論に習い、戻っていくべき本来の姿などないことを認めたうえで、思索を深めようとしていく。この思索がどこへ辿り着くのかが気になれば、ぜひご自身でこの本を読んでみることをおすすめする。その道程こそが、その人にとっての〈暇と退屈の倫理学〉となるだろう。

一方、本書で退けた他の多くの疎外論のように「本来性」を志向するナラティヴは、非常によく有り得るもののひとつだと思う。よく有り得るというのは、誰でも自ら発想しやすく、また他人のそうした発想も理解しやすいということだ。

僕もあまり意識せず「本来」のような語法に接したり使ったりしていたかもしれないが、こうした類のものは、接するときも使うときも少なからず注意を払うべきだなと感じ、自省した。

そういう注意を払えるように、今後も「暇」や「時間」を大事にしながら暮らしたい。


『暇と退屈の倫理学』
國分功一郎 著
1800円 四六判 402頁 978-4-255-00613-0
朝日出版社 2011年10月20日 発行

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