本の紹介記事を書くにあたって、定型的なスタイルをいつも用いているわけじゃないけど、中でも今回は特に散らかった話になるかもしれない。
でも、人生ってそういうものなので、そういう風に書く。
『ホームレスと都市空間』という本は、僕が『ベルリンうわの空 ウンターグルンド』の制作手伝いをする過程で読んだ本のひとつだ。先日のトークイベントでも、ちょうど主題が「うわの空ができるまで」という過程の部分だったのと、そしてイベントの主催が本屋であるジュンク堂さんだったことから、僕はこの本のことを紹介した。
本書は、ホームレスの人びとの置かれた状況、かれらの立場に立とうとする都市社会運動、これらを規定する資本-国家の構造とダイナミズムを、全体として明らかにするものである。
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林 真人(2014)『ホームレスと都市空間』 明石書店 P.10
序論の一文目にこう掲げているように、この本は、ホームレス問題の全体像を明らかにしようと書かれた本だ。
当事者ひとりひとりの問題をケアすることももちろん大事だが、根っこや源流の問題を検討することもまた大事だと思う。この根っこや源流を考えるにあたり、本書が与えてくれる視座は僕にとって大きな助けになった。
僕は、ホームレス問題については専門家でも支援者でもない単なる「いち市民」で、難解な論を十全に理解することもできなければ、継続的な支援活動に従事しているわけでもない。だけど、僕みたいな「いち市民」たちがどれだけ想像力を働かせられるかによって社会全体のムード(ホームレス以外の諸問題についても)が形成されていくと思う。だから、十全なレベルには達しないとしても、自身にできる範囲で理解を進めたいと考えている。
トークイベント内でこの本を紹介できる時間があるとすれば僅かだということは分かっていたけど、念のためサッと再読して内容を確認しておいた。そして、イベントが終わって数日経ってから、あるウェブ記事を読んだところ、本のなかに登場したキーワードのことが頭をよぎった。再読したばかりだからキーワードが色濃く記憶に残っていたわけだ。
そのようにウェブ記事と本との結びつきが起きたことが今回の記事を書こうと思った動機なのだが、そこへ至るまでにもう少々の過程がある。
藤原辰史さんという方がいる。京都大学人文科学研究所准教授で、歴史学、とくに農業史や環境史を専門にしており、著書に『ナチスのキッチン』、『戦争と農業』、『分解の哲学』などがある。
Covid-19パンデミックがいよいよ全世界的に深刻に捉えられるようになってきた2020年4月、ウェブサイト「B面の岩波新書」へと藤原さんが寄稿した「パンデミックを生きる指針」は大きな反響を呼んだ。僕もこの「指針」を公開直後に読んで身が引き締まる思いだったし、「いろいろ大変なことが起こるだろうけど冷静に、まともに、やっていかなきゃな」と感じた。
藤原さんについては、著書のひとつである『トラクターの世界史』で知ったりしていたけど、この「指針」を見て以降、研究成果としての本だけではなく藤原さん自身に興味が湧くようになり、なんとなく名前を見掛けたら意識を向けるようにしていた。
たとえば、コープこうべで買い物したとき、藤原さんの講演会のチラシが掲示板に貼られていることに気付いて、メモ代わりに写真を撮ったりしている。良い機会であったにも関わらず、状況的に結局この講演会には行けなかったのが残念だ。

ちょっと話が変わる。YouTubeを使っていて、「全編を視聴する気は起こってないんだけど、いちど動画をクリックしておく」ことがある。そうしておくことでレコメンドのアルゴリズムに刺激を与え、僕へ提示する「おすすめ動画」の精度を上げてもらうのだ。あまり気にそぐわないものを勧められたら「興味なし」とか「チャンネルをおすすめに表示しない」のボタンを押し、フィードバックする。
これは、自分が気に入る動画に出会うためというより、むしろ、ノイズ避けのためにやっていることである。電車内や街頭で見掛ける広告なんかでも同様だけど、僕はギラギラしてるものとかプレッシャーを掛けてくるものが苦手で、そういうものとの接触から本当に体調を崩す。だからなるべくノイズと出会わないよう、制御できるところは制御するようにしている。
そういうわけで、ノイズ避けを主な目的としてレコメンドのアルゴリズムに働きかけているんだけど、時には、良い「おすすめ動画」と思いがけず出会える場合もある。
ある日、藤原さんの対談動画が「おすすめ動画」として提示された。1時間を超える動画で、なかなか骨がありそうだったので、動画を開いて高評価ボタンを押すだけ、その日はやっておいた。とりあえず高評価ボタンを押すだけ押しておけば、後々「高く評価した動画」のリストから視聴し直しやすくなるし、以後の「おすすめ動画」にも恐らく強めに作用する。
その成果だと思うんだけど、つい先日、藤原さんが登壇している別の対談の動画を提示された。仙台市の文化公共施設「せんだいメディアテーク」のYouTubeチャンネルによって投稿された動画で、対談相手は鷲田清一さんだった。僕は『ちぐはぐな身体』などの著作を読んだことがあり、鷲田さんのことも知っている。この動画も開いて、高評価ボタンを押した。
動画は閉じないままにして、ポッドキャストのように音声を聞きつつ、せんだいメディアテークのホームページを見たり、鷲田さんのことを調べたりしていた。動画の概要欄に「鷲田清一館長」と書いてあったのが気になったからだ。どうやら鷲田さんは、せんだいメディアテークの館長を2013年から務められているらしい。
そのまま音声を聞きながら調べているうちに、あるウェブ記事を見つけた。世界思想社のウェブマガジン「せかいしそう」にて発信されていた、鷲田清一×藤原辰史「人生案内の流儀」。そう、今まさに対談音声を聞いている鷲田さん・藤原さんによる対談記事だ。
せんだいメディアテークの対談とは別物で、こちらのウェブ記事のほうは、2020年6月に刊行された鷲田さんの著作、『二枚腰のすすめ』の刊行記念で行われたものである。『二枚腰のすすめ』では、新聞連載の人生相談(悩み相談)コーナーにて鷲田さんが受け答えした71の悩みを収録している。
全4回の対談記事を読み、僕の意識に留まったのが、この部分だ。第3回「人生相談と資本主義」より。
鷲田 社会の構造的なきしみとか軋轢というものを、最終的には家族が、あるいは個人の〈わたし〉が、引き受けさせられている。そこで何とか処理しないと、にっちもさっちもいかない。介護の問題でもそうだし、就職の問題でもそう。そういう今の社会の状況がもろに出ているんだと思います。
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鷲田清一×藤原辰史「人生案内の流儀」 <3> - せかいしそう
https://web.sekaishisosha.jp/posts/3833
「社会の構造的なきしみとか軋轢というものを、最終的には家族が、あるいは個人の〈わたし〉が、引き受けさせられている」――。
この部分が、『ホームレスと都市空間』にて書かれていた「個人化された貧困(貧困の個人化)」というキーワードと、頭の中でぴたりと重なった。
現代都市の下層労働者は、労働力商品化を強く経験しているゆえに、「契約の自由という原則の適用」(※1)が、かれらの生活にとって所与の条件である。資本主義のもたらす「人間存在のあらゆる組織的な諸形態を消滅させ、異なったタイプの組織――原始的で個人的な組織――へと置き換える」(※1)という個人化や原子化の圧力は、社会組織を絶えず不安定化させる。困窮状態は、「個人的な飢餓」(※1)という、個人化された出現形態を取ることを余儀なくされる。
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林 真人(2014)『ホームレスと都市空間』 明石書店 P.19
戦後日本において、寄せ場へと労働者が至るまでに、家族崩壊や地域コミュニティの喪失が契機となっていることは少なくなかった。「『家族解体』そのものが、離死別を含めて、山谷日雇労働者の形成要因のひとつ」(※2)であったのである。これを、困窮者の極限的な生存戦略として捉えるならば、それは「生活困難を何とか救う手だて」として、親密圏の薄皮を一枚一枚自らの手で剥いでいく「単身世帯化」として理解できるかもしれない。
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林 真人(2014)『ホームレスと都市空間』 明石書店 P.20
※1
Polanyi, Karl(2001[1944])『The Great Transformation』 Beacon Press P.171-172
※2
江口英一・西岡幸泰・加藤佑治 編著(1979)『山谷 失業の現代的意味』 未來社 P.64
さらに『ホームレスと都市空間』から、少々長くなるが引用する。
そもそも資本主義のもとで住宅危機を抱え、生存の危機を破裂させ、野宿状態に陥るプロセスとは、個人の力ではいかんともしがたい、外的な力による〈収奪〉である。しかし本稿で論じた若年ホームレスの人びとは、ホームレス化のプロセスを、そのような外的で疎遠な力によるものとは、自己了解していない。むしろ「なげやり」「もう誰も信じられない」「あのときは悪かった」といった言葉に典型的に現れているように、ホームレスになるまで/なってからのプロセスは、三者三様ながら、いずれにしても個人的問題の所産であると理解されている。三人はそれぞれ、きわめて形式的な自己責任論を、固着した内面形式としていわば「結晶化」させ、それを自己アイデンティティの拠り所の一つとすらしている。そしてこの結晶化が、生活史の自己理解を支配し、かれらの現在を絡め取っている。
もちろんこれは、各人の聞き取り当時の視点から構成された物語であり、そしてその筆者による解釈である。しかしそのような物語や解釈は、労働力商品化・社会組織・社会権・都市空間といった側面で重層的に働く〈収奪〉が、今日の個人化の傾向のなかで具体的なものとして経験されるうえでの、ある独特な知覚の質を示している。三人の事例が明らかにするのは、こうした重層的な〈収奪〉が、ポランニーが「家や家族から切り離され、かれ自身のルーツおよびあらゆる有意味な環境から引き剥がされ」(※3)ると述べる、徹底的な脱埋め込みを軸にしながら、貧困問題を絶え間なく自己責任や個人的問題として把握させる、貧困の個人化の知覚をもたらしているということである。
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林 真人(2014)『ホームレスと都市空間』 明石書店 P.57-58
※3
Polanyi, Karl(2001[1944])『The Great Transformation』 Beacon Press P.87
これらを総合して、僕が市井の人々について日々感じていた二つの疑問の答えを一挙に得た気がした。二つの疑問とは、「なぜ、さまざまな満たされなさが恋愛(相手)によって全て解決されるという期待や願望を抱く人が多いのか」と、「なぜ、自分自身をも含んでいる社会の問題について興味や関心を抱かない人が多いのか」である。
鷲田さんに寄せられた質問は、「圧倒的多数が、家族の問題と恋人の問題」だという(同対談記事<3>より)。恋人から延長線を引いた先に家族があるとするなら、これは同じ問題であり、圧倒的多数がそれについて悩んでいるということになる。
広い射程で考えた場合の「家族」や個人が、「社会の構造的なきしみとか軋轢というものを」「引き受けさせられている」というのは、まさに「個人化された貧困」の表れであり、このきわめて社会的な問題を、個人的な問題だと知覚しているからこそ、社会ではなく「原始的で個人的な組織」である「家族」に向けて、さまざまな満たされなさの解決を希求するのではないか。そしてその希求を、多くの場合、「家族」は満たしてくれない。なぜなら、満ちた感覚を〈収奪〉したのは「家族」ではなく、「外的で疎遠な力」だからだ。
色々なことが連なっている。
最初に「おすすめ動画」として僕に提示された藤原さんの対談動画は、「ほうぼくチャンネル」によるものだった。老子の言葉に名前を由来するNPO法人・抱樸(ほうぼく)は、多面的で形式に囚われない困窮者支援を、「伴走」を、続けている。
抱樸の理事長であり代表の奥田知志さんは、日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会の牧師だが、『ホームレスと都市空間』においても、たとえば神奈川県の相模原や藤沢といった地区で「教会などのローカルな既存組織もまた、[ホームレス]運動を展開していくうえで欠かせない役割を担った」(P.200)事例が紹介されている(なお、ここでは「教会」ということから連なりを見出したが、肝要なのはむしろ「ローカルな既存組織」ということだと思う)。
二〇〇〇年になると藤沢カトリック教会には、ホームレスの人びとのために専用のシャワーが設置された。高沢さんの頭のなかには、勤務する寿生活館四階のイメージ(身支度のため洗濯機とシャワーが自由に使える設備)があり、藤沢にもそれに近い環境を整えたいという考えがあった。「大きいもの」が作れなくても、中身としては非常に意味のある支援ができるのである。高沢さんは次のように述懐する。
でかい教会だから、だからたとえば野宿者のシャワーを。こちらもそういう話をしてさ、野宿者のシャワーみたいなのを……。生活館は作れなくても、たとえば(生活館にあるような)シャワーを。シャワーがあって、よくいうじゃん俺が、洗濯機があって、身支度ができたら、仮にだよアパートみたいな大きいものが作れなくても、施設とかはできなくても、中身としては非常に意味のある支援ができると。それはもうずっと言ってきた話さ。
この願望を教会に持ちかけたところ、シャワーを設置するという構想は、予想外にスムーズに進んでいった。高沢さんは次のように言う。
「シャワー作ってみますかね」ってなっちゃたのさ、簡単に。かれらはほら、もう、人が一杯いるから。たとえば百万ぐらいの金だったら、百万ひとりがってのは大変だけど、二、三万出してくれる人から、何千円の人までいれて、献金箱回して「こういうために献金お願いします」とかっつって、福祉部から何十万単位の金もらえば、「すぐ百万くらいの金あつまりますよ」とかっつってさ。で、できちゃうわけさ。
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林 真人(2014)『ホームレスと都市空間』 明石書店 P.211-212
いま引用した部分に続く「シャワー設置反対派」の人々との話し合いのプロセスも非常に良く、ぜひ参考にしたいモデルケースなのだが、今度は、藤原さんの講演会のチラシ写真に視線をもう一度移してみよう。

「いのちとくらしの映画祭」として、『パブリック 図書館の奇跡』の上映会が予定されている。映画の公式サイトから、ストーリー紹介を引用する。
米オハイオ州シンシナティの公共図書館で、実直な図書館員スチュアート(エミリオ・エステベス)が常連の利用者であるホームレスから思わぬことを告げられる。「今夜は帰らない。ここを占拠する」。大寒波の影響により路上で凍死者が続出しているのに、市の緊急シェルターが満杯で、行き場がないというのがその理由だった。
約70人のホームレスの苦境を察したスチュアートは、3階に立てこもった彼らと行動を共にし、出入り口を封鎖する。それは“代わりの避難場所”を求める平和的なデモだったが、政治的なイメージアップをもくろむ検察官の偏った主張やメディアのセンセーショナルな報道によって、スチュアートは心に問題を抱えた“アブない容疑者”に仕立てられてしまう。やがて警察の機動隊が出動し、追いつめられたスチュアートとホームレスたちが決断した驚愕の行動とは……。
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『パブリック 図書館の奇跡』 公式サイト
https://longride.jp/public/
そう、ここにもホームレス問題での連なりがあるのだ。
そして、鷲田さんと藤原さんの対談記事にも目を移す。第3回「人生相談と資本主義」では、先ほど引用した部分の直後から、「ステイホーム」の話を経由し、「ホームのない人」に思いを馳せる。
鷲田 「ステイホーム」ということばで、その人の耳に届いていたとしてですけれども、一番最初にかちんと来るのはホームのない人だと思うんです。
藤原 本当にそうです。
鷲田 「だって、おれ、ずっと、ホームってないもんな」と言う人です。その人たちは、藤原さんも書いていらしたけど(「パンデミックを生きる指針」)、コロナ前からずっとコロナと同じ脅威にさらされてきた人なんです。そういう意味で、僕は「ステイセーフ」ということばのほうが好きです。
藤原 それはどういう意味ですか。
鷲田 「みんな、それぞれの場所で、なんとか乗り越えてね、しのいでね」ということです。それは必ずしも家族とは限らない。それぞれ、セーフでいられる場所というのを探して、そこでセーフでいてね、というメッセージ。
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鷲田清一×藤原辰史「人生案内の流儀」 <3> - せかいしそう
https://web.sekaishisosha.jp/posts/3833
色々なことが連なっている。
こうした連なりこそが、しみじみと感慨深かったので、半端にトリミングせず、連なりを右往左往するように書いてみた。人生ってこういうものだと思う。
『ホームレスと都市空間 収奪と異化、社会運動、都市-国家』
林 真人(はやし まひと) 著
4,800円 A5判 388頁 978-4-7503-3965-8
明石書店 2014年2月25日 発行