屋根瓦のすぐ下までハクサンチドリ[ラン科の多年草]の紅紫色の花が咲いているように見える四軒の家が、密生した丈の高い小麦畑の向こうに姿を現す。
そこは丘と丘のあいだの窪地である。その窪地は大地の肉体が湾曲して豊かに盛り上がっているいくつかの丘に囲まれている。
レンゲの花がオリーヴの木々の下で血のように咲いている。幹から甘い樹液をにじませている白樺のまわりで、小さな蜂たちが踊る。
泉からふんだんに湧き出てくる水が、ふたつの水源となって歌う。岩から落ちてくる水源の水を、風が撒き散らす。二本の水の流れは草の下であえいでから、合流し、イグサが茂っている沢を流れていく。
風がプラタナスをざわめかす。
それはレ・バスチッド・ブランシュ[白い農家]という集落である。
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ジャン・ジオノ/[訳]山本 省(2012)『丘』 岩波書店 P.7
こうした書き出しから始まる『丘』のページを繰っていくと、すぐに、活き活きとした自然描写が豊富であることに気付く。
森は踊っている。雷雨の断片が次々と通りすぎる。雷が短く轟き、そして稲妻がきらめく。大気は硫黄や砂利やガラスの匂いがする。水滴の光が窓ガラスを染める。その窓を、壁から剥がれてしまった蔦が、葉のついた重い腕で叩いている。
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ジャン・ジオノ/[訳]山本 省(2012)『丘』 岩波書店 P.29
※「剥」には正字が使われていますが、正字が機種依存文字のため異体字に置き換えました。
それは、冒頭を印象的にする目的でのみ用いられた軽薄なテクニックではない。冒頭で見られたような態度が、捉え方が、『丘』の全体を構成している。歯切れのよい文体で描かれた自然が読者の五感を刺激する。
訳者の山本氏による巻末の解説から、ジオノの言葉を引用する。注によれば、これは『憐憫の孤独』という中短編集に書かれた言葉であるらしい。なお、『憐憫の孤独』については未読だが、こちらも山本氏による日本語訳版が発行されている。
「必要なのは、人間をしかるべき位置に置くこと、人間をあらゆるものの中心にしないこと、ただ高さや広さとしてだけではなく、重さ、香り、身振り、魅惑する力、言葉、共感として、山が存在するということを知覚できるだけ謙虚になることだ。河は、怒りや愛情、力、全能の偶然、病気、冒険への渇望などを備えた人格である。川や泉は人格である。それらは愛し、騙し、嘘をつき、裏切る。それらは美しい」
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ジャン・ジオノ/[訳]山本 省(2012)『丘』 岩波書店 P.229
ジオノの汎神論的な自然観は、詩的な描写を通じて読者に提示されるだけではなく、『丘』の物語の中心地である小さな集落、レ・バスチッドに暮らす人々にも徐々に伝わっていく。
まもなく寿命を迎えようとしている集落の最長老・ジャネは、娘婿であるゴンドランに奇妙な話をする。
「あそこに家や木や丘があるが、そのまわりは本当に空っぽだとお前は本気で考えているのか? 家はただの家であって、それ以上のものじゃないとでも思っているのか? 丘は丘で、それ以上の何ものでないとでも?」
「お前も、俺のように、指のなかに蛇を持つようになれば、こういうことがいろいろと分かるようになるだろう。お前が、道のどこかで、夕方に、急に、空気のなかに潜んでいるものに正面から向き合うようなことがあれば、お前にも、俺のように、蛇が見えてくるんだがなあ」
「蛇がいる」などと主張するジャネに対し、最初はまともに取り合っていなかったゴンドランだったが、彼もまた後日、「これ(大地)は肉体だ! 生命を持っているんだ!」という感覚を抱く。そして、ジャネやゴンドランの話を聞いた他の住民たちも次第に、丘が意思を持つ何ものかであるかのように感じ始める。不安が大きくなるにつけ、そうした認識はいっそう強化されていき、住民のひとり、ジョームは「生命を持つ恐ろしい丘が自分の足の下で動いている」のを感じるようになる。
読者は、文学表現として自然描写の躍動感や瑞々しさに魅せられているうちに、気付けば、丘の息吹を感じられるようになってくる。レ・バスチッドの住民たちも、彼らの身の回りに起こる出来事を通じて、丘の息吹を感じられるようになってくる。それらの並走が合流する頃、いよいよ丘が強大な力をあらわにする。この、広い意味での感覚の共有(あるいは「支配」かもしれない)が、印象的だった。伸びやかな自然の歌を響かせながら、その歌が物語装置にもなっているのだ。
この記事の締めとして、もうひとつ引用する。レ・バスチッドの住民たちが「丘」への警戒を強めている日の描写なのだが、昼食の喜ばしさを実によく感じられる表現で、良かった。
午前中は静かだったので、みんなはいくらか安心した。そして、とくにこのキャベツとジャガイモの美味しいスープは、腹持ちがよいし、すぐに役立つきれいな血を作るし、肉体や脳髄の流れのなかに淀みなく流れこみ、彼らを希望で満たしてくれる。
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ジャン・ジオノ/[訳]山本 省(2012)『丘』 岩波書店 P.80-81
『丘』
ジャン・ジオノ 著
山本 省 訳
600円 文庫判 252頁 978-4-00-375125-1
岩波書店 2012年2月16日 発行